2014年8月31日日曜日

2014.6/29~7/3 東北 その3

前回に続き、被災地とボランティアの模様です。

閖上中学校前の道路。津波による引き波で瓦礫が引っかかったのか、柵が海側に根こそぎなぎ倒されているのがわかります。

閖上中学校。3.11の津波ではおよそ400人が避難したそうです。その後、廃校になってしまいました。

時計は地震発生時の14:46分のまま止まっています。

日和山全景。頂上に神社があります。もともとここに鎮座していたものと、津波で流されてここに移転してきたものがあります。

本当に全てが失われてしまった事実を目の当たりにしました。テレビに映し出されていたあの日とはまた違う現実がそこにはありました。

ここ一帯の草引きや細かい瓦礫の除去などをしました。
土地によっては花が手向けてあったところもあり、「入る前にはお邪魔しますの意味を込めて合掌しましょう」と現地ボランティアの方からアドバイスを受けました。

海沿いでは防潮堤の工事が盛んに行われていました。

日和山のふもとにあったモニュメント。石ブロックで「閖上」の字があしらわれています。植栽は芝桜で、春になると花が咲いてピンク色になるそうです。

バス停の近くにあった閖上小学校。3.11の津波ではおよそ1000人が避難したと言われています。
閖上中学校ともども廃校になりましたが、バス停の名前は 「閖上小学校前」のままです。


閖上小学校の近くにある歩道橋です。ここにもおよそ40人が避難しました。歩道橋に避難した人々は道路を流れてくる人を懸命に助けようとしたそうですが、結局1人しか助からなかったそうです。

周辺は草が生え放題でした。奥にある建物は閖上中学校です。倉庫として活用しているのか、古い12ftコンテナが置いてあります。全体的に殺風景です。

こんな看板も見つけました。感慨深いです。語り部さん曰く、ここにはもう人が住めないとのこと。戻りたくてももう戻れないという、複雑な被災者の心境が窺えます。

遺品の数々。元から置いてあったのもありましたが、草引きをしていると遺品が見つかることもありました。先輩に話を聞くと、作業をしていたところガスメーターが出てきたそうです。人が住んでいた痕跡がこれだけしかないと思うと少しさみしい気もします。

お店もありました。ボランティア中はよくお世話になりました。

側溝調査(遺品掘り出し)ボランティアの方々も作業をされていました。中には同じボランティアセンターから来た人もいました。
津波のあと流れてくる砂で側溝が埋まるため、ここを掘って行方不明者を見つける手掛かりを探すのが側溝調査の目的です。実際、調査が終わった区画に多数の遺品が置いてありました。そのなかでも人物が特定できるものを警察に持って行って鑑定してもらうそうです。まれにお骨が見つかることもあるそうです。

人の手が入らないところは草だらけです。中には木のようになった草も生えていました。
土も石混じりですが、よくこんなところで生きていけるなぁと感心しました。これぞ雑草魂だと。そして草引きで僕はこの雑草魂と格闘したのでした。

草だらけだった花壇も綺麗になりました。


日和山からの眺め。上写真が仙台市方面、下が沿岸部方面。



仙台駅にて。3年以上経ち、多くの路線が復旧して行く中で、いまだに影響が残っている線区もあります。

原発事故による運転見合わせ区間。原ノ町〜広野(2014.9月現在竜田まで復旧)が今も不通で、代行バスも運転されていません。運転再開は当分先と思われます。お隣、福島ではいまだに解決しない原発問題を抱えている現実が運賃表にまで表れていました。


初めて自分の目で見た被災地。
ニュースで映し出されていた映像とはまた違う現実を知ることができました。
今もなお、多くの爪痕を残している3.11の地震と津波。
語り部さんは、「もっと早くに住民が逃げていれば、亡くなった人の中には助かった人もいたかもしれない。」そうおっしゃっていました。
これに向き合い、そして教訓にし、もし災害が起こっても3.11より少ない被害で済むように……。
思い込みや過信に負けない、一人一人の災害に対する、命を守る意識が大切だと思います。

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