2014年8月31日日曜日

2014.6/29~7/3 東北 その2

前回の続きです。
今回は、鉄分が少なめの内容です。

到着から一晩が明け、この日からボランティア活動を開始。

朝、マイクロバスに乗り込んで仙台市若林区荒浜へ行きました。
若林区は仙台市の中でも海に面している区の一つで、2011年3月11日に発生した東日本大震災による津波で大きな被害を受けました。
家が基礎しか残っていない状態で放置され、辺りは草が生え放題でした。3.11以来、時が止まったような印象を受けました。


その傍らでは、防波堤を作る工事が行われていました。コンクリート資材を積んだトラックが工事現場を往来していました。

殺風景な町並みの一角に、かつての様子を伝えるミニブースがありました。
被災前は、このような立派な家が立ち並ぶ、海の綺麗な町だったそうです。基礎しか残っていない家を見ていると、以前、ここに人が住んでいたのだろうかと感じました。
写真にも色が褪せているものがあって、あの日から3年という年月が経った事を改めて実感しました。

亡くなられた方のご冥福をお祈りする観音様が鎮座されていました。

しばらくここで被災地の現状を見たあと、再びマイクロバスに乗ってお隣の名取市閖上地区に向かいました。ここでも別な現実が待っていました。

辺りにはごくわずかの頑丈な建物以外、全て失われていました。

到着後、「閖上の記憶」というへ行き、語り部さんにお話を伺いました。


ここ閖上には、貞山堀という伊達政宗が作らせた運河があります。
そして、海沿いの北側には牡鹿半島があります。

人々は、「牡鹿半島が(地形上)堤防のようになっているから三陸からの津波は来ない」、「貞山堀を越えて津波が来ることは無い」と思い込んでいました。
そのため、地震が起こった後、住民は散らかった家の片付けなどをして、逃げようとしませんでした。

そして1時間後、あの巨大な津波が閖上に襲いかかりました。

逃げ遅れた人々や自力で避難できないお年寄りを助けようとした人、避難していても高いところへ行かなかった人、その多くが津波に飲まれて犠牲になりました。

津波が襲ってから1週間。
避難している人が、精神的な苦痛を訴えるようになりました。最初は元気だった子供たちも、だんだんと暗い気持ちになっていったそうです。

語り部さんは、「被災者の心のケアが必要である」とおっしゃっていました。

子供たちには、被災前、そして未来の閖上などについて画用紙や紙粘土で立体マップを作り、それを通じて現実と向き合い、心のケアをする取り組みが行われました。

大人にも様々な心のケアが行われました。
その一つが「閖上あみーず」 という団体です。編み物をすることで被災者どうしの交流を図り、心のケアへとつないでいくプロジェクトです。アクリルたわしを始め様々な作品を販売しています。


「閖上の記憶」でお話を伺った後、ボランティア活動を行う日和山という小高い丘の周辺まで語り部さんと歩きました。

これは防波堤の工事で、今どのくらいの高さまで工事が進んでいるのかを示しているそうです。

土砂を積んだダンプトラックが頻繁に行き交っていました。

見づらいですが、この青い線(中央白い札の下)が3.11の時の津波の高さを示しているそうです。

日和山の下に立てかけてあった石碑。一番右に、「地震があったら津波の用心」とあります。
実は閖上地区は昭和三陸大津波でも大きな被害を受けていたのです。
語り部さん曰く、「人々は過去に起こった事を学ぼうとしなかった。人々は辛い事を語ろうとしない。それが油断につながり、3.11で再び多数の犠牲者が出た」と。そして「災害はいつ起こるか分からない。この石碑はその教訓である。皆さんも日頃から災害への備えを心掛けて欲しい。それと同時に、3.11の事を語り継いで欲しい。」と。

昼食後、飲み物を買うべく自動販売機に行くと、広告が入っているスペースに商店からのメッセージが出ていました。

この後1時間ほど活動し、仙台市内のボランティアセンターへ戻りました。

これ以上書くと長くなりすぎるので、続きは次回に回します。長文失礼致しました。

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